タスマガジン|副業を頑張る人のお金の情報マガジン

新紙幣に描かれる人物は誰?偉人達の生い立ちや活躍について解説

新紙幣に描かれる人物は誰?偉人達の生い立ちや活躍について解説

2024年に新紙幣が世の中に出回りますが、デザインが新しくなるのは2004年以来です。この記事では、2024年に一新される人物は誰なのか?それぞれの人物の生い立ちや活躍を詳しく説明します。 人物の歴史を知ることで、お金を使うときにより親しみを湧きやすくなるのではないでしょうか。

2024年に新紙幣が世の中に出回りますが、デザインが新しくなるのは2004年以来です。この記事では、2024年に一新される人物は誰なのか?それぞれの人物の生い立ちや活躍を詳しく説明します。

人物の歴史を知ることで、お金を使うときにより親しみを湧きやすくなるのではないでしょうか。

2024年に新紙幣が世の中に出回りますが、デザインが新しくなるのは2004年以来です。この記事では、2024年に一新される人物は誰なのか?それぞれの人物の生い立ちや活躍を詳しく説明します。

人物の歴史を知ることで、お金を使うときにより親しみを湧きやすくなるのではないでしょうか。

新紙幣の人物

2024年にデザインが一新されますが
壱万円:渋沢栄一
五千円:津田梅子
千円:北里柴三郎
が新しいお札の人物になります。

壱万円:渋沢栄一

日本で初めての株式会社を立ち上げるなど、資本主義の父とも呼ばれています。企業を立ち上げに力を注ぎ、立ち上げた会社の数は500と言われています。

その中でもみずほ銀行や日本ガスといった、現在も大企業として残っているのも数多くあります。

五千円:津田梅子

明治4(1871)年、政府が欧米派遣した「岩倉使節団」の女子留学生5人の内の1人として加わりました。そのときの年齢は6歳で最年少でした。

帰国後は女子教育の現場を作りたいという夢を抱き、現在の津田塾大学を設立しました。

千円:北里柴三郎

ドイツで破傷風の治療法を確立し、近代医学に貢献した医学者です。

帰国後も結核予防や細菌学研究に取り組み、現在の北里大学の前身となる研究所を設立しました。

新壱万円札の渋沢栄一とは何をした人?

渋沢栄一は、現在のみずほ銀行や王子製紙を設立し、他にも現在73の名だたる老舗の大企業を手掛けたとも言われています。

資本主義の父とも呼ばれている渋沢栄一の生い立ちやどのような活動をしてきたのでしょうか。

渋沢栄一の生い立ち

1840年(天保11年)現在の埼玉県深谷市に生まれ、実家は藍玉の生存販売と養蚕、米・野菜の農業を営んでいました。

幼少期は読書に励み、大きくなってからは従兄弟の尾高惇忠(おだかあつただ)に論語や史記などの漢学を学びます。1861年から3年間は江戸で文武を学び、そのときの師匠は、坂本龍馬の師事と呼ばれる千葉定吉の甥である千葉栄次郎です。千葉の道場には、尊皇攘夷思想の仲間が多かったことから、仲間の影響により倒幕しようと考えていましたが、従兄弟の尾高惇忠に説得され倒幕は諦めました。

渋沢は、農民から武士になり、武士から実業家へと大きく飛躍します。

一橋慶喜に仕え武士になった

一橋慶喜とは平岡円四郎がキッカケで出会います。一橋慶喜は徳川最後の将軍ですが、渋沢が倒幕を企てようとした経歴を理解した上で士官として迎えます。幕府の財政の立て直しで才覚を発揮し、しばらくして一橋慶喜の弟と一緒にヨーロッパに渡ります。

ヨーロッパでは経済の勉強や歴史を学び、留学中は3つの日記に記して勉強に励んでいたと言われています。日記の内容は、鉄道や工場、水道や博物館、銀行や造幣局など日本の近代化に欠かせないものを興味深く考察したものが書かれていました。

大政奉還から明治時代での活躍

ヨーロッパに留学中、日本で大政奉還が行われ幕府がなくなったことを耳にします。ヨーロッパにいる多くの日本人のデマではないか?と疑いをかけている中、渋沢だけは動じず落ち着いた様子だったそうです。日本の動きは予知していたのでしょう。

しばらくした後帰国し、幕府に仕えていた渋沢は明治政府に鞍替えをし、大蔵省に仕え国立銀行の設立に尽力を尽くします。

退官後の渋沢栄一

大蔵省を退職したあと、国立第一銀行(みずほ銀行)の頭取になりました。

その後も富岡製糸場や王子製紙となる企業の設立に関わります。 また、現在の一橋大学を創立したのも渋沢です。

約500にわたり企業設立に関わったと言われていますが、現在も有名な企業を紹介します。
日本郵船会社:後の日本郵便
・東京ガス
・日本女子大学
・東京株式取引所
・日本興業銀行
・京都銀行

新五千円札の津田梅子とは何をした人?

岩倉使節団の1人として渡米し、女性にも正当な教育を受けられるようにするため、津田塾大学を設立しました。

現在は男女共に活躍できる社会となりましたが、当時は男性が社会で働き、女性は家庭を守るというスタイルでした。現在の社会スタイルの基礎を築いたといっても過言ではありません。

津田梅子の生い立ち

江戸の牛込南御徒町で生まれ、父は幕府で英語やオランダ語の通訳として仕えていました。しかし幕府崩壊とともに職を失い、その後明治2年に向島に移り住み、父は西洋野菜を畑で耕し、梅子は習い事や父の手伝いをして幼少期を過ごしました。

6歳のときに岩倉使節団に随行して渡米し、英語だけでなくラテン語やフランス語を学びました。明治15年に帰国し、井上馨が主催するパーティーに招かれ伊藤博文と再会し、伊藤の勧めで英語教師として勤務した経験があります。

再度の留学をし、渡米先で8,000ドルを日本婦人米国奨学金制度で集め、日本女性教育の改善を訴えて教育者としての道のりを歩みます。

岩倉使節団に参加した理由

岩倉使節団に参加した理由として、北海道開拓使次官の黒田清隆(後の総理大臣)が大きく関与しています。

黒田がアメリカに行ったときに、アメリカ人の女性の教養、地位の高さに感銘を受けます。帰国後、政府に「次の世代を立派に育てるためには、教養のある母親が不可欠です。そのためには女子教育に力をいれるべきだ」という内容の意見書を提出し、欧米への女子留学生派遣を求めます。留学生が女性だけというのもこのような理由があったからです。

提案が通り募集をかけたところ、津田の父親は明治政府の北海道開拓の嘱託になっていた関係もあり、娘の梅子を応募させました。最年長は14歳、最年少は梅子の6歳の計5人の女子留学生が集まりました。岩倉使節団の目的は、政府首脳による不平等条約の改正交渉など、欧米諸国の技術の発展に関して参考にするための調査が目的です。

このとき伊藤博文や木戸孝允も同行しています。

アメリカの暮らし

6歳で渡米した梅子は、ワシントン郊外にあるランマン夫妻の家で暮すことになります。

留学してから2年後、キリスト教の洗礼を受けたいと夫妻に申し出るほど、アメリカの暮らしに馴染んでいきます。洗礼を終えたのち初等教育を終え、8歳からは市立の女学校でフランス語やラテン語、英文学、自然科学、心理学、芸術など幅広く知識を吸収しました。

明治14年(1881年)政府から留学ができる期間が10年と決められていたため、帰国をするよう命令を受けます。しかし梅子は、山川捨松とともに延長を申請し、明治15年7月に卒業したため11月に帰国しました。

アメリカから帰国後の活躍

帰国後、英語は堪能ですが、日本語がほとんど話せない状態です。また当時の日本は儒学の考えが残っており、女子留学生が仕事に就けるような職業はありませんでした。

明治16年、井上馨が主催するパーティーに招かれ、岩倉使節団で同行した初代総理大臣伊藤と再会します。伊藤は、華族の女子を教育する桃夭女塾(とうようじょじゅく)の開設者の下田歌子を紹介します。津田は下田から日本語を学び、英語教師として桃夭女塾に通うようになります。3年間ほど教壇にたっていますが、華族階級のような方と馴染めず、縁談も何回か断っています。

幼少期から思春期にかけてアメリカで過ごした津田にとって、日本の結婚観はうんざりしたものだったと言われています。明治22年に友人「アリス」の勧めで再度留学し、生物学や教授法に関する研究をしていました。友人のアリスは、日本の女性について研究しており、アメリカ帰国後「日本の女性」を出版しました。

この本に対し津田は日本の女子教育に関心を示し、日本に帰国してから女子英学塾を設立します。身分に関係なく、誰でも平等に受けられる女子教育を目指しました。

この女子英学塾が今の津田塾大学として今も津田梅子の思いが受け継がれています。

新千円札の北里柴三郎は何をした人?

北里柴三郎は、日本の医学者、細菌学者、教育者、実業家と様々な顔を持ち、「日本細菌学の父」として知られています。

またペスト菌を発見し、破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に力を注ぎました。

北里柴三郎の生い立ち

1853年、現在の熊本県阿蘇郡小国町北里で代々庄屋を務める家に生まれます。

1871年に18歳で熊本医学校(現在の熊本大学医学部)に入学し、3年後東京医学校(現在の東京大学医学部)に編入しています。在学中に、医者は病気になる前に予防するべきだと考え、予防医学に関係する仕事に就くことを目指しました。

卒業後は内務省にある衛生局に就職しました。

北里柴三郎の研究

明治19年(1886年)から6年間ドイツに留学し、研究に没頭します。留学中の明治22年(1889年)に破傷風菌の純粋培養に成功しました。

さらに破傷風菌に対する免疫抗体を発見し、免疫抗体を利用した血清療法を作りました。この業績により、世界的な研究者として名を轟かせました。

活躍と功績

明治25年(1892年)に帰国し、福沢諭吉らの支援のもと、私立伝染病研究所を創立し、伝染病に対する予防と細菌に関する研究に取り組みました。

1894年、香港で蔓延したペストの原因調査のために赴き、ペスト菌を発見しました。

1914年に伝染病研究所が内務省から文部省に変わりましたが、この変更を機に辞任し、新しく医学研究機関「北里研究所」現在の北里大学の前身が創立されました。

また1917年に、慶應義塾大学医学科を設立し、病院の設立だけでなく社会活動にも従事しました。

 (39787)

新紙幣の人物は今の日本を作り上げた偉人

壱万円札の渋沢栄一、五千円札の津田梅子、千円札の北里柴三郎は今の日本の礎を築いた偉大な方たちです。経済、教育、医療と3つの分野でそれぞれの活躍があったからこそ、日本の経済も発展したといっても過言ではありません。

新紙幣となる方の人生を見ることにより、お金のありがたみもわかるのではないでしょうか。新紙幣が発行されるまでまだ時間がありますが、新紙幣の人物だけでなく、現在の紙幣に印刷されている福沢諭吉や、樋口一葉、野口英世の人生も見てみるのもいいかもしれません。

TOP